学齢期までお世話になった小児科の先生が引退された。開業して36年、地域の母子の強い味方だった。新聞に大きく取り上げられていた。その記事で先生の年齢を見て驚いた。74歳。まだまだご活躍いただけるのにと思った。だが健康なうちにやめようと決心されたという。強い責任感ゆえのご判断だったのだろう。
引退という文字には一抹(まつ)の寂しさがあるが、何ごとにも終わりはある。体は確実に変化し、時代も変わる。いつまでも同じ立場でいることはだれにとってもあり得ない。今の時代、60歳で定年というのは早すぎるが、ではいくつならよいかと問われても答えられない。だからこそ自らが決めることが必要なのだ。自動車の免許証の返納も、本人がその気にならなければどうにもならない。
最近、大阪市長が任期満了後政界を引退することを表明した。その会見が妙に晴れやかな笑顔だったことに少なからぬ違和感はあったが「責任」の形としての引退なのだろう。アメリカの大統領選挙はさらに騒々しい。車の免許証であれ大統領であれ、潔い引き際はかくも難しいものかと改めて思う。
周囲から惜しまれ、心身ともに余力を残して引退するのは理想だが、それができる人は、いったいどれくらい、いるのだろうか。美しい紅葉のあと、その葉は潔く散るからこそ次の年がある。引退は次のステージの第一歩だと教えてくれているようにも見えてくる。かくありたいと思う。(生活デザイナー)