使わないものは思いきって処分しようと納戸の片付けを始めた。だが早々に手が止まったのが義母の草履(ぞうり)である。料理研究家として活躍したが、後年は和服を改良して気軽に着ることを提案することにかなりの情熱を注いだ。華やかな色やデザインを好み、どんな時もその場の中心にいた。普段の生活でも衣食住すべてに手を抜かず、いつも他者の目を意識していたような気がする。毎日がハレの日で、緊張しっぱなしの暮らしだったのかもしれない。
だがこの暮らしの中の適度な緊張は、実は大切なのだと思う。今は日常と非日常の境界が曖昧(あいまい)になっている。結婚式に招かれても、普段着とあまり変わらない服装で出席する人が多くなったし、外食に特別感はすでにない。携帯さえ握っていればいつでも他者と繋がり、実情と違う自分さえ画面に並べることができる。日常と非日常だけでなく、実情と虚像の境界さえ明確ではなくなってしまった。
これは食卓にも言える。いわゆるインスタ映えする自作の料理をアップする人の多さには日々驚く。熱いものは熱く、冷たいものは冷たく、空腹の人には早く食べさせようと思えば写真どころではないはずだ。とは言え、極端な演出や装飾は問題だが、食卓を含む暮らしの衣食住のメリハリは必要だと思う。行事や季節感は大切である。SNSで他人に見せるためではなく、少なくとも子供たちの記憶には残る。とりあえず義母の草履は大切に保管し、キモノ好きの若い人たちに使ってもらおうと思う。(生活デザイナー)