長く魚類の遺伝や発生の研究をしてきた夫が退職した。私大や広島大学での勤務も合わせて40年の研究生活だった。ありがたいことに後輩や教え子さんたちが国内外から集い、最終講義や記念講演、祝賀会を開いていただいた。遠方からのご参加者もあるため、11月の連休の開催となった。好きな研究を仕事にできたことは夫にとって幸せだった。それなりの苦労はあったが、それを凌駕(りょうが)する喜びが彼をここまで支えてきたのだと思う。
祝宴では素敵なごあいさつをいくつもいただいたが、中国から駆けつけてくれた張さんのスピーチには涙が止まらなかった。彼は夫が最初に博士論文の指導をした留学生だった。今は母国で大活躍する教授である。彼は5センチ以上の分厚いファイルを手に舞台に上がった。日本への留学が決まった日から、夫や大学とのやりとりの文書がすべて整理されていた。だが、彼がみんなに見せた1ページ目は白紙だった。張さんの説明はこうだった。
「日本に来てよいです、自分の研究室に来てよいですという荒井先生からのファックスです。本当にうれしかった。昔のファックスなのでもう文字が消えてしまいましたが、この一枚で人生が変わりました。なにより大切な紙、宝物なのです」
感謝の気持ちの表し方にはいろいろあるが、この白い一枚の紙と技工のない張さんの言葉は多くの人の胸を打つのに十分すぎるものだった。(生活デザイナー)