前回、90歳の義父が歩けなくなったことを書いた。つえをつき、よろよろしながらも、毎日欠かさずスーパーやデパ地下に通い、3食自分で作っていた。毎週一度、贔屓(ひいき)にしている魚屋さんから、キンキやマグロの冊など、私たちには手の出ない品を届けさせてもいた。
時にはレンジで温めた熱かん、小さいビール缶も加わり、自ら選んだ一人暮らしの食卓は決して貧弱ではなかったはずだ。話し相手がいないことは寂しかったかと思うが、好きなテレビを見ながら気ままに食べることを切望した。
「大人数でワイワイ」を一家だんらんとして推奨した時代は変りつつあるのだろう。毎週土曜日、嫁の私を相手におすし屋で情報交換するだけで十分だといつも笑っていた。その優雅で自立した義父が突然の歩行困難で入院して一週間、あっという間に食欲を失くして点滴生活になった。
もう自ら買い物にはいけない。好きなお造りも熱かんも無理。せめて車いすで買い物に連れ出し、好きなものを選ばせ、食べさせたいと思うがそれも無理だろう。食に関する教科書も編集出版したが、義父の点滴を目の前にした時、「食べること」以上の薬はないこと、それ以上の喜びも目標もないことをあらためて痛感した。
北国に野菜のおいしい季節がきた。日本酒に合うみそでもつけて今年もぽりぽり食べさせたかった。なんとか食事ができるようになればと祈る思いで病院通いをしている。(生活デザイナー)