今年はスズランの花の可憐さを存分に堪能した。切り花にしてからも凛として咲き続けていたが、次第に小さく、茶色くなって、背筋にも見える細い茎をピンと伸ばしたままわが家の食卓でその季節を終えた。なんとも凛々しい終わり方だと私は思った。
花は野にあるように、とはよく言われることだが、切り花にした時点で野にある姿とは違う。花の修行時代、師匠たちに厳しく言われたことを思い出す。野にあればもっと長く生き、子孫も残せた花なのだから、最後の最後まで美しく生かすことが花を扱う者の仕事なのだと。以来教えを守り、切り花は水切りを繰り返して、時間とともに変わる姿も楽しむようにしているが、それでも限界はある。ハラハラと花びらは散り、水を吸い上げなくなる日は必ずくる。時に残酷にも見える変化を直視することも花を扱う者の仕事であり醍醐味だと思う。だからこそ、あっという間に終わる美しい時期に価値があるのだろう。
食べ物の場合は旬ということばを使う。今はアスパラが旬。山菜もおいしいし、夏野菜もそろい始めた。北国の良い季節は短い。旬を逃さず謳(おう)歌したい。そして思う。人間の旬とはいつをいうのだろうか。若い頃か。働き盛りと言われる時期か。子育て時代か。いつであれ、今が旬だと思って暮らそうと思う。イチゴもアスパラもカボチャも年中手に入る時代になった。旬がなくなったと嘆く向きもあるが、人間に限って旬はいらない。そう思いたい。(生活デザイナー)