毎日喪中の葉書が届く。この季節、義父は喪中の葉書を受け取っては友人や知人を亡くしたことを「いやんなっちゃうねえ」と嘆いた。その義父自身が6月に逝った。今年は私たちが書く番になった。
だが私は書かない。喪の思いは家族が共有して十分である。いつもどおり静かに新しい年を迎え、新年のご挨拶は有り難く頂こうと思う。その上で、頂いた方々には年が明けてから寒中お見舞いと家族の近況をお知らせする葉書でご挨拶しようと考えている。
実父を亡くした時もそうした。ただ、一人暮らしだった義父に毎年年賀状を書いて下さっていた方々には、すでに義父がいないことをお知らせしなければならない。ああこれが喪中の葉書の本当の意味なのだと気がついた。出すべき相手は他界した当人の交友関係であった。義父が潔くあっぱれな江戸っ子人生を終えたことを伝える葉書を書きながら、あらためて、義父を失った寂しさを味わっている。
一人息子の家族を煩わせないと決めた義父は、入院する日まで立派に一人暮らしを貫いた。毎週土曜日の昼、嫁の私とおすし屋で一杯やることを楽しみにしてくれていた。函館にいる一人息子や本州の孫娘たちの情報にうれしそうに耳を傾け、熱かんをおいしそうに飲んだ。店の近くの植木を毎週立ち止まって眺め「緑がいいね」「花もいいね」「冬囲いもいいね」と季節の移ろいを言葉にした。その義父がいない。そのことを知らせる筆はとても重い。(生活デザイナー)