材料を全部入れておくだけで帰宅した時には〇〇ができている鍋とか、煮込み料理からパンまで焼ける万能の鍋もある。便利な鍋の進化は目覚ましい。だが先日、若い友人がシチューを作りながら五目ご飯が炊けないと嘆いていて驚いた。どんなに万能でも同時に何種類も作れないのは当然である。
料理研究家の友人のキッチンには電気釜も電子レンジもないが、彼女は使い慣れたわずかな鍋とフライパンだけでどんな料理も簡単に作り、温かい料理をタイムリーに食卓に並べる。キッチンが整頓されていることは言うまでもない。健康器具と調理用具は次々に魅力的なものが発売になるが、使わなくなってやり場に困るものも少なくないようだ。
便利なものに心躍った時はひと呼吸する必要があるのかもしれない。コーヒーも、豆を挽(ひ)いたりお湯を注いだりするのは面倒だが、そのわずかな時間を省いたところで何にどれほどの差が出るのだろうか。広がるコーヒーの香りはもちろん、ポットの重さや湯気など、その作業は五感を刺激してくれる貴重な時間である。
ステイホームを機に我が家では昔ながらのお釜型の鍋でご飯を炊くようになった。母の時代から使っている古い鍋も酷使している。電気に頼らない調理は、火や水の加減に工夫ができてなかなか面白い。「便利」は飽きることがあるが、「不便」は頭を使わなければならないし、意外な楽しみがたくさんある。この1年半で発見したことである。(生活デザイナー)