前回この欄に食器を処分できない旨を書かせていただいた。今回は続編。断捨離で不要なモノを処分して身軽になれば人生も変ると背中を押されたが、気がつけば今度は周囲は終活だと騒々しい。
一生懸命働いて必要なモノを買う、余裕ができたら好きなモノ、欲しいモノを手に入れる、そして誰かに贈って喜ばれたい、それが人間だろう。知らず知らずのうちにモノがあふれて生活空間がなくなるのは仕方がない。
だが、そのモノを引き継いでくれる人がいない。いたとしても古いモノなどだれも喜ばれない。それならば元気なうちに処分してしまおうということか。断捨離も終活もその意図は素晴らしい。だが私にはどうもしっくりこない。
ヒトという動物は単に使うものだけで満足するイキモノではない。もしそうならどんな芸術も無用だろう。モノを介して時代や空間を記憶し、それを支えに生きる動物なのだ。遅かれ早かれ処分するのだと思って何かを手に入れるとすれば、そんなむなしいことはあるまい。とはいえ、不要になれば捨てるのはやむを得ないか。
写真のたんすは義母亡き後、義父が使っていたものである。その義父が他界したあとは私の仕事場で食器たんすとして大いに役立っている。先日のキモノの勉強会では義母が集めた古いキモノと帯が大活躍してくれた。
結局、良いモノは残るということか。捨てたくないモノを選ぶ目、それを養うことこそが大切なのかもしれない。ああ、なんだかとても難しい。(生活デザイナー)